「東広島キャンパスの遺跡/山中池南遺跡第2地点」の版間の差分

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=山中池南遺跡第1地点=
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遺跡北部が保存区として設定されたが、その後、南部にも古墳時代を中心とする重要遺構が発見されたため、これも保存地区に含まれることとなった。2007年度より古墳時代遺構の保存整備が実施され、遺跡公園として公開されている。
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*遺跡北部が保存区として設定されましたが、その後、南部にも古墳時代を中心とする重要遺構が発見されたため、これも保存地区に含まれることになりました。2007年度より古墳時代遺構の保存整備が実施され、遺跡公園として公開されています。[https://goo.gl/maps/Av86i8uE1SxTbZUe6]。
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*山中池南第2地点はががら山の北麓に位置し、1991年の予備調査で発見されました。1995年から2000年にかけて発掘調査が行われ、旧石器時代~近世に渡るたくさんの遺構・遺物が見つかりました。その中でも古墳時代の遺構は竪穴住居跡2基、柱穴群1ヵ所、須恵器焼成窯跡1基、木炭ブロック5基、炉跡1基、土坑12基、段状遺構2基、溝1基が見つかっています。窯跡からは多数の須恵器破片が出土しました。
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*調査の結果、2つの住居と窯は同時に存在していたことが分かりました。古墳時代後期において、この地では須恵器を生産し、また2号住居跡(SB02)では鍛冶作業を行っていました。これらのことから、当時の山中池南遺跡第2地点は工房のような場所であったと考えられています。
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*SB01は東西5.8m、南北2.6mの規模の住居です。南側半分は削られていましたが、元々は南北約5.0mの4本柱の建物だったと考えられます。北側の壁には石を組み合わせた竈(かまど)が造られ、煙道も造られています。竈内からはほぼ完全な形の土器が出土しました。出土状況から祭祀を行った跡かもしれません。
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==2号住居跡==
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*SB02は東西約6.9m、南北推定4.0mの大きさで、奥壁には石組炉が、その南側には近接して鍛冶炉が造られています。
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*鍛冶炉の東側の地面は焼けて硬くなっており(硬化面)、この場所で鍛冶作業を行っていたと考えられます。作業の時に出る鉄くずや、砥石などの道具も見つかっています。また北西隅では立石(りっせき)が見つかり、何らかの祭祀を行っていたのかもしれません。
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*柱穴の配置などから、片屋根の小屋のような単純な構造であったと考えられています。
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*SY01は全長8.1m、幅2mの地下式の窖窯(あながま)です。南向きの斜面に築かれており、天井は崩れていましたが高さ1mほどのかまぼこ型であったと考えられています。
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*窯は大きく2回修理されており、何回か須恵器が焼かれたようです。窯の中からは多数の須恵器破片が出土しました。
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ファイル:山中池南第2 窯の構造(横から見たところ).jpg|200px|right|窯の構造(横から見たところ)
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*前庭部…作業場
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*焚口(たきぐち)…燃料(炭)を入れるところ
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*燃焼部…燃料が燃える所(ここで高温になった空気が焼成部へ)
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*焼成部…須恵器を置く所(土器の安定のため、地面が階段状)
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*煙道…煙の出口
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*灰原…失敗品や壊れた土器、炭の燃えカスなどを捨てる所
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==関連する遺跡==
 
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2021年12月17日 (金) 16:11時点における最新版

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山中池南遺跡第2地点

  • 遺跡北部が保存区として設定されましたが、その後、南部にも古墳時代を中心とする重要遺構が発見されたため、これも保存地区に含まれることになりました。2007年度より古墳時代遺構の保存整備が実施され、遺跡公園として公開されています。[1]

概要

  • 山中池南第2地点はががら山の北麓に位置し、1991年の予備調査で発見されました。1995年から2000年にかけて発掘調査が行われ、旧石器時代~近世に渡るたくさんの遺構・遺物が見つかりました。その中でも古墳時代の遺構は竪穴住居跡2基、柱穴群1ヵ所、須恵器焼成窯跡1基、木炭ブロック5基、炉跡1基、土坑12基、段状遺構2基、溝1基が見つかっています。窯跡からは多数の須恵器破片が出土しました。
  • 調査の結果、2つの住居と窯は同時に存在していたことが分かりました。古墳時代後期において、この地では須恵器を生産し、また2号住居跡(SB02)では鍛冶作業を行っていました。これらのことから、当時の山中池南遺跡第2地点は工房のような場所であったと考えられています。

1号住居跡

  • SB01は東西5.8m、南北2.6mの規模の住居です。南側半分は削られていましたが、元々は南北約5.0mの4本柱の建物だったと考えられます。北側の壁には石を組み合わせた竈(かまど)が造られ、煙道も造られています。竈内からはほぼ完全な形の土器が出土しました。出土状況から祭祀を行った跡かもしれません。

2号住居跡

  • SB02は東西約6.9m、南北推定4.0mの大きさで、奥壁には石組炉が、その南側には近接して鍛冶炉が造られています。
  • 鍛冶炉の東側の地面は焼けて硬くなっており(硬化面)、この場所で鍛冶作業を行っていたと考えられます。作業の時に出る鉄くずや、砥石などの道具も見つかっています。また北西隅では立石(りっせき)が見つかり、何らかの祭祀を行っていたのかもしれません。
  • 柱穴の配置などから、片屋根の小屋のような単純な構造であったと考えられています。

 

1号須恵器焼成窯跡

  • SY01は全長8.1m、幅2mの地下式の窖窯(あながま)です。南向きの斜面に築かれており、天井は崩れていましたが高さ1mほどのかまぼこ型であったと考えられています。
  • 窯は大きく2回修理されており、何回か須恵器が焼かれたようです。窯の中からは多数の須恵器破片が出土しました。
  • 前庭部…作業場
  • 焚口(たきぐち)…燃料(炭)を入れるところ
  • 燃焼部…燃料が燃える所(ここで高温になった空気が焼成部へ)
  • 焼成部…須恵器を置く所(土器の安定のため、地面が階段状)
  • 煙道…煙の出口
  • 灰原…失敗品や壊れた土器、炭の燃えカスなどを捨てる所

関連する遺跡