東広島キャンパスの遺跡/鏡西谷遺跡

提供: 広島大学デジタル博物館
ナビゲーションに移動検索に移動

広島大学 > 広島大学デジタル博物館 > 文化財博物館 > 東広島キャンパスの遺跡 > 鏡西谷遺跡

鏡西谷遺跡

鏡西谷遺跡は標高260~280m の丘陵や丘陵斜面などに営まれた遺跡です。1981年と1982年に発掘調査を行い、弥生時代と中世(鎌倉時代・室町時代)を中心とする複合遺跡であることがわかりました。A~H地区の8地区から多数の遺構・遺物が発見され、D地区・ E地区・F地区・G地区が保存区として整備されています。また、D地区内に鏡東谷古墳が移築復元されています。

鏡西谷遺跡各地区の位置

鏡西谷遺跡の各地区からは、下記のような遺構が見つかっています。

A地区(弥生時代末~後期前葉)
弥生時代竪穴住居跡1軒、土坑3基ほか
B地区(縄文時代早期・鎌倉時代後半)
鎌倉時代土坑墓1基、土坑1基、溝1条ほか
C地区 (鎌倉時代中期・江戸時代)
鎌倉時代掘建柱建物1棟、土坑2基
江戸時代土坑墓1基
D地区 (弥生時代中期末~後期前葉・鎌倉時代前半・江戸時代)
弥生時代竪穴住居跡3軒、貯蔵穴3基ほか
鎌倉時代土坑墓3基、竪穴式住居状遺構1軒、積石塚2基ほか
江戸時代土坑墓1基
E地区(弥生時代)
弥生時代周溝墓状遺構2基、土坑3基、集溝墓状遺構2基ほか
F地区 (弥生時代・室町時代)
弥生時代竪穴住居跡2軒
室町時代掘建柱建物1棟、柵状遺構5基、積石塚2基、土坑墓2基ほか
G地区 (弥生時代後期前葉)
弥生時代竪穴式住居跡4軒、掘建柱建物1棟、貯蔵穴5基、土坑墓1基、土器棺墓1基ほか
H地区(弥生時代後期前葉・室町時代・江戸時代)
弥生時代竪穴式住居跡1軒、貯蔵穴1基ほか
室町時代柵状遺構4基、土坑墓8基ほか
江戸時代土坑墓5基

弥生時代の遺構・遺物の分布状況

 弥生時代の遺構・遺物は、A地区、D地区、G地区、H地区を中心に発見されており、F地区でも住居跡が見つかっています。各地区の時期は弥生時代中期末~後期前葉(今から約2000年前)を中心としていて、ほぼ同じ時期に属しています。詳細に検討してみると、中期末はA地区に1軒、D地区に1軒程度、後期前葉はD地区に1軒、F地区に1軒、G地区3軒前後、H地区に1軒程度、住居が同時に建っていたようです。各地点に家族を中心とした住居が建てられ、全体としてムラを形作っていた姿が想定されます。また、後期前葉では住居の数・規模やその他の遺構、出土遺物の内容などからG地区の集団がムラの主導権を握っていたと推定されます。

中世(鎌倉・室町時代)の遺構・遺物の分布状況

 中世の遺構・遺物は、B地区、C地区、D地区、F地区、H地区を中心に発見されています。B地区、C地区、D地区では鎌倉時代の館跡や墳墓が見つかっています。丘陵裾や斜面裾などなだらかな傾斜地を平坦に削平して館を建てています。墳墓は周辺の丘陵上(D・F地区)や館の跡地に造っています。F地区の丘陵上やH地区では室町時代の砦と思われる施設が築かれており、建物跡、柵状遺構、溝などの施設から構成されいます。鏡西谷遺跡の背後の山にはこの地域の拠点的な山城である鏡山城が築かれており、鏡山城に直接関連した施設と思われます。

このほか、遺構は確認できませんが、平安時代後期の遺物も出土しており、古代末以降この付近が西条盆地の中でも重要な地域であったことがうかがえます。

B地区

鏡西谷遺跡B地区

 B地区では鎌倉時代後半を中心とする遺構が検出されました。手前の溝は長さ約9mで、石垣状に組まれていた石が崩れて落ち込んでいます。溝の北側は平坦な面が広がっており、柱穴がまとまって見つかっています。柱のつながりはよくわかりませんが何らかの建物が建っていたものと考えられます。また、土坑墓や祭祀の痕跡などが見つかっています。北側に重要な施設が存在したようです。また、B地区では墨書土器が出土しました。

C地区

1. 掘立柱建物(SB01、鎌倉時代)

 C地区では鎌倉時代前半を中心とする遺構が発見されてました。発掘調査の時点では、B地点との間は東広島市道で隔てられていましたが、本来一連の遺跡と考えられます。掘立柱建物はC地区の中心的な遺構です。緩やかな斜面をL字状に削平して平坦地を造成して東西(桁行)3間、南北(梁行)2間の東西建物(8.7×4.5m)建てています。北東側に湧水があり、建物の周囲に溝を巡らせています。湧水地は道路の下であったため発掘調査できませんでしたが、井戸などの施設があったかもしれません。建物跡からは輸入青磁や瓦器、土師質土器、鉄鎌など多数の遺物が出土しました。

また、この建物に重複して土坑墓が1基発見されました。墓の中から瓦器椀や土師質の皿、砥石などが出土しています。建物が廃絶された後に営まれたものと思われます。

2. 掘立柱建物(鎌倉時代)の遺物出土状況

 掘立柱建物(SB01)では、土師質土器を中心に、瓦器、備前焼、須恵質土器、輸入磁器(青磁)などの土器類のほかに、石鍋、鉄器(鎌、やりがんな)、砥石などが建物北側の溝や建物北東部を中心に出土しました。土師質土器は、坏、皿がもっとも多く、土鍋や羽釜などいずれも日常雑器で、地元で作られた土器です。瓦器は畿内(近畿地方中央部)産、備前焼は備前(岡山県東部)産、須恵質土器は備後(広島県東部)や播磨(兵庫県東部)東部産です。青磁は中国同安窯産です。これらの地元以外から入手された遺物は量的にはあまり多くありませんが、かなりの有力者が住んでいたことをうかがわせます。

3. 掘立柱建物(鎌倉時代)の遺物出土状況その2

 掘立柱建物(SB01)の土師質土器の出土状態です。写真の中央部にはそこの抜けた土鍋が逆さまになって出土しています。その周囲には坏や皿が無造作に散らばっています。坏は壊れているものがほとんどですが、皿は完全な形を保っているものが散見されます。土器類は北側の溝上部や当時の地表よりやや浮いているものが多いことからすると建物の倒壊に伴って埋まったもののほかに建物が廃絶した後に捨てられたものもあるのかもしれません。

4. 掘立柱建物(鎌倉時代)の遺物出土状況その3

 掘立柱建物(SB01)で出土した鉄鎌です。もちろん、すっかり錆びていますが、全体の形をよくとどめています。むかって左が刃先、柄に取り付けるための作り出しの部分です。湾曲した刃を持っており、現代の鎌と基本的に同じ形をしています。

5. 火葬墓(江戸時代)

 掘立柱建物(SB01)を埋めていた土層の上面で発見したものです。平面は長楕円形を呈しており、長さ約1.5m、幅約1mの規模です。墓坑内には木炭が充填され、壁はよく焼けていました。中央部には骨片が多数認められました。現地で火葬しそのまま埋葬したものと思われます。規模から見ると、子供の墓の可能性が考えられます。

鏡西谷遺跡D地区

1. 竪穴住居跡(SB01~03、弥生時代)

 D地区では中期末~後期前半の竪穴住居跡が3軒発見されました。写真左下の住居跡は3軒の中で最も新しく、平面形は他の2軒が円形であるのに対し、角が丸い隅丸長方形です。また、火災を受けていた。この住居跡に切られているむかって右側の平面円形住居跡は貯蔵穴を設けています。これらの住居跡では、弥生土器を中心として、分銅形土製品、石鏃、石包丁形石製品などが出土しました。

2. 土坑墓(SK04)と供献土器(SK05)(鎌倉時代)

 中世の遺構としては、土坑墓、積石塚、集石墓などの墳墓や竪穴住居跡遺構が発見されました。写真右側は土坑墓で、木棺を覆うように平らな石を多数用いており、棺の接合は鉄釘を用いています。墓坑の大きさは1.5×0.8mで、収められていた棺は一回り小さなものが推定されます。この墓には土師質土器坏5点が供えられていました(写真左側)。時期は鎌倉時代前半と考えられます。

鏡西谷遺跡F地区

掘立柱建物(SB03)と積み石塚(SS02)(鎌倉時代)

 F地区では鎌倉時代の掘立柱建物、積み石塚、室町時代の郭状遺構柵、溝などが発見されました。室町時代の遺構群は近接する鏡山城と関連する砦のような性格をもつものと思われます。写真はむかって左が掘立柱建物跡で、向かって右は積石塚です。掘立柱建物は5.9×1.9mの東西建物で、1×2間の規模です。積石塚では積石の下部から2基の土坑墓が見つかりました。

鏡西谷遺跡G地区

1. 竪穴住居跡と貯蔵穴(弥生時代)

 D地区では後期前半を中心とする集落跡が発見されました。急傾斜の斜面をL字状に削平して何段もの平坦面を造成し、その平坦面に家や貯蔵穴を造っています。方形の竪穴住居跡4軒、貯蔵穴5基、土坑墓1基、土器棺墓1基などが見つかりました。写真は2号住居跡(SB02)で、発見された住居跡の中ではもっとも大型です。平面は約7×5mの規模があります。柱穴は北側の壁沿いを中心としており、南側は削平されているためわかりません。

2. 土坑墓(SK06、弥生時代)

 土坑墓(SK06)は丘陵の裾に造られていました。また、近くには周溝墓状遺構などが見つかっており、G地区南部からE地区北部が墓地として利用されていたようです。墓地と集落は集落の南端部を巡る溝によって区分されています。土坑墓は、長さ約2m、幅 1.5mの規模です。墓の上には壺・甕・鉢形土器など多数の弥生土器が供えられていました。