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浄土宗に属し,戦国時代,以八(いはち)上人によって建立(こんりゅう)された.厳島は14・5世紀頃から,内海の要港としてにぎわい門前町が発達した.これまで厳島神社に関係をもつ寺院はあったが,以八上人は町家の人達を教化する目的で来島し,念仏を勧め多くの信徒を得た.鎌倉時代末期の木造阿弥陀如来立像,絹本紺地金彩弥陀三尊来迎図(以上国指定重要文化財)を所蔵する.この寺の裏手は同じく浄土宗の道場坊神泉寺の跡であるが,天文18年(1549)堪阿弥が再興し,昼夜時刻を知らせたので時寺(ときでら)と呼ばれ親しまれた.天明・寛政の頃(18世紀末)島内諸所に井戸を掘り,宮島名産の杓子を創始し民生につくした誓真は神泉寺の番僧であった.
 
浄土宗に属し,戦国時代,以八(いはち)上人によって建立(こんりゅう)された.厳島は14・5世紀頃から,内海の要港としてにぎわい門前町が発達した.これまで厳島神社に関係をもつ寺院はあったが,以八上人は町家の人達を教化する目的で来島し,念仏を勧め多くの信徒を得た.鎌倉時代末期の木造阿弥陀如来立像,絹本紺地金彩弥陀三尊来迎図(以上国指定重要文化財)を所蔵する.この寺の裏手は同じく浄土宗の道場坊神泉寺の跡であるが,天文18年(1549)堪阿弥が再興し,昼夜時刻を知らせたので時寺(ときでら)と呼ばれ親しまれた.天明・寛政の頃(18世紀末)島内諸所に井戸を掘り,宮島名産の杓子を創始し民生につくした誓真は神泉寺の番僧であった.
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2019年2月3日 (日) 10:37時点における版

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光明院(こうみょういん)

解説(現地の看板より)

光明院の説明板(撮影: 坪田博美.January 17, 2019)

浄土宗に属し,戦国時代,以八(いはち)上人によって建立(こんりゅう)された.厳島は14・5世紀頃から,内海の要港としてにぎわい門前町が発達した.これまで厳島神社に関係をもつ寺院はあったが,以八上人は町家の人達を教化する目的で来島し,念仏を勧め多くの信徒を得た.鎌倉時代末期の木造阿弥陀如来立像,絹本紺地金彩弥陀三尊来迎図(以上国指定重要文化財)を所蔵する.この寺の裏手は同じく浄土宗の道場坊神泉寺の跡であるが,天文18年(1549)堪阿弥が再興し,昼夜時刻を知らせたので時寺(ときでら)と呼ばれ親しまれた.天明・寛政の頃(18世紀末)島内諸所に井戸を掘り,宮島名産の杓子を創始し民生につくした誓真は神泉寺の番僧であった.


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