弥生時代/弥生時代

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弥生時代

弥生時代は水稲栽培による本格な農耕が開始された時代です。縄文後・晩期には畑作を中心とする農耕が開始されていたと考えられており、陸稲(おかぼ)の栽培も行われていたという意見もあります。また、縄文時代晩期の九州地方では水稲も存在し、半島から小規模な人々の移住も始まっていた可能性があります。最近の研究で、はこれまで縄文時代晩期としていた時期の後半には北部九州地方の一部ではすでに稲作が開始されており、弥生時代に含めて考える研究者が多くなってきました。 弥生時代は本格的な農耕社会の始まりです。最初北部九州で定着した稲作は、比較的短期間のうちに北海道を除く日本列島全体に広がりました。稲作技術は半島を中心とする人々が伝え、稲作の広がって行く背景に彼らの子孫の移住があったと考えられますが、弥生時代の社会を形作ったのは各地に暮らしていた縄文人であったと思われます。半島からわたってきた人々は、はじめ西日本を中心とする各地でムラを作り縄文人と共存していましたが、稲作が広がる中で各地の社会に同化していったと思われます。彼らは単に稲作技術を伝えただけでなく、稲作に伴う農耕儀礼など習俗や社会組織、集落の作り方なども同時に伝え、縄文社会を大きく変えていきました。 弥生時代は金属器が使われ始めた時代でもあります。青銅器は主に祭り(祭祀)の道具として、鉄器は実用の道具として利用されました。弥生時代の後半には実用の道具は次第に石器から鉄器に移行していきました。 稲作は水の管理など多くの人々の協力を必要としました。また、人々と土地の関係を縄文時代に比べて一層強固にしました。この結果、人々をまとめるリーダーの存在が重要となるとともに、良い耕地に暮らす人々とそうでない人々の間に貧富の格差を生み出しました。また、鉄器、青銅器やその素材など生活の実用品や宝器的な文物を入手できる手段を持った人々とそうでない人々の間に格差を生み出しました。こうした状況は、縄文時代には緩やかな上下関係で結ばれていた人々を固定的な上下関係の社会へと導きました。階級性社会の成立です。弥生時代の中頃(中期)には各地にはっきりしたまとまりが観察できるほど、弥生社会は政治的に成長していました。とくに、北部九州の、王墓と呼んでもなしつかえないような大きな墳丘と多くの宝器的な副葬品を持った墳墓にその状況を顕著に見て取ることができます。弥生社会が政治的に成熟していく中で、地域間の強い緊張も同時に生まれ、中期後半から後期には生活には適さない高地に多くの武器を備えた集落(高地性集落)が各地に築かれています。時には戦争も行われたのでしょう。弥生時代後期を通じて、地域的なまとまりは政治的にさらに統合されていき、その象徴として弥生時代の終わり頃に各地域に独特の大型墳墓(墳丘墓)が出現します。