「東広島キャンパスの遺跡/山中池南遺跡第1地点」の版間の差分

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=山中池南遺跡第1地点(アカデミック地区)=
 
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山中池南遺跡第1地点は標高230m前後の丘陵裾緩斜面から段丘面にかけて立地しています。現状は周囲を削平されて、島状に旧地形が残されていましたが、元々は東側に丘陵、西に湖成段丘面が広がっており、遺跡付近は丘陵先端部から段丘面へ移行する緩斜面にあたっています。また、調査区の北側には埋没谷が広がっており、第1地点の北西に位置する第2地点との境界となっています。遺構・遺物は調査区の全域に分布しており、調査の結果、縄文時代、中世(室町時代)を中心とする時期の複合遺跡であることがわかりました。
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山中池南遺跡第1地点[https://goo.gl/maps/X6KPA7Z53B3dAjrg7]は標高230m前後の丘陵裾緩斜面から段丘面にかけて立地しています。現状は周囲を削平されて、島状に旧地形が残されていましたが、元々は東側に丘陵、西に湖成段丘面が広がっており、遺跡付近は丘陵先端部から段丘面へ移行する緩斜面にあたっています。また、調査区の北側には埋没谷が広がっており、第1地点の北西に位置する第2地点との境界となっています。遺構・遺物は調査区の全域に分布しており、調査の結果、縄文時代、中世(室町時代)を中心とする時期の複合遺跡であることがわかりました。
  
 
調査区北端部と南部を中心として縄文時代の、調査区中央部を中心に中世の遺構・遺物が見つかりました。縄文時代の遺構は中世の遺構構築時に削平されている可能性があり、本来は調査区全域に広がっていたのかもしれません。
 
調査区北端部と南部を中心として縄文時代の、調査区中央部を中心に中世の遺構・遺物が見つかりました。縄文時代の遺構は中世の遺構構築時に削平されている可能性があり、本来は調査区全域に広がっていたのかもしれません。
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遺物は調査区全域から出土しましたが、とくに2軒の住居跡周辺から集中して分布しています。出土遺物は縄文土器、石器があります。
 
遺物は調査区全域から出土しましたが、とくに2軒の住居跡周辺から集中して分布しています。出土遺物は縄文土器、石器があります。
  
===中世===
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===中世(室町時代)===
 
中世の遺構は調査区中央部で、鍛冶炉跡1基、溝2条、土坑13基、調査区南端部で炭窯跡が発見されました。鍛冶炉はほかの遺構からやや離れて独立して構築されており、屋根などの上屋構造は確認できませんでしたが、簡単な遮蔽物があった可能性があります。土坑は調査区中部の西半に集中して群をなしています。地形的には浅い谷頭状の窪地に位置しています。溝は調査区中央部の東端に造られていますが、東側の削平部分に存在した遺構の一部と思われます。これら中世の遺構は製鉄に関連した工房の一部と思われます。
 
中世の遺構は調査区中央部で、鍛冶炉跡1基、溝2条、土坑13基、調査区南端部で炭窯跡が発見されました。鍛冶炉はほかの遺構からやや離れて独立して構築されており、屋根などの上屋構造は確認できませんでしたが、簡単な遮蔽物があった可能性があります。土坑は調査区中部の西半に集中して群をなしています。地形的には浅い谷頭状の窪地に位置しています。溝は調査区中央部の東端に造られていますが、東側の削平部分に存在した遺構の一部と思われます。これら中世の遺構は製鉄に関連した工房の一部と思われます。
  
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===2号住居跡(SB02、縄文時代)===
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==縄文時代==
調査区南部で縄文時代の住居跡が2軒発見されました。いずれも平地式の住居です。1号住居跡は試掘調査の際に南側半分を削平してしまいましたが、2号住居跡(写真左)は完全な形で発掘できました。10本の柱穴が楕円形に巡っており、 長径5.2m、短径4.1mの規模です。住居跡周囲からは 多数の土器・石器が出土しました。
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===2号住居跡(SB02)===
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調査区南部で縄文時代の住居跡が2軒発見されました。いずれも平地式の住居です。1号住居跡は試掘調査の際に南側半分を削平してしまいましたが、2号住居跡(写真左)は完全な形で発掘できました。10本の柱穴が楕円形に巡っており、 長径5.2m、短径4.1mの規模です。住居跡周囲からは 多数の[[東広島キャンパスから出土した遺物/山中池南遺跡第1地点|土器・石器]]が出土しました。
  
===1号住居跡1号炉跡(SH01、縄文時代)===
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===1号住居跡1号炉跡(SH01)===
1号住居跡の中央には平面楕円形の素掘りの炉が築かれていました。 長径65cm、短径45cmの規模で、炉内から炭化したドングリの実(写真矢印、 クヌギ?)が1点出土しました。食用に採集したものが偶然落ち込んだのでしょう。 この他に、山中池南遺跡第1地点では屋外炉が調査区北側で2基発見されています。炉に近接して大型土坑2基が造られており、調理用の炉と思われます。 山中池南遺跡第1地点で発見された縄文時代の遺構は出土遺物から中期の前葉(約5000年前)に位置づけられます。広島県内では類例が少なく、貴重な資料です。
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1号住居跡の中央には平面楕円形の素掘りの炉が築かれていました。 長径65cm、短径45cmの規模で、炉内から炭化したドングリの実(写真矢印、 クヌギ?)が1点出土しました。食用に採集したものが偶然落ち込んだのでしょう。
  
===鍛冶炉跡(室町時代))===
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この他に、山中池南遺跡第1地点では屋外炉が調査区北側で2基発見されています。炉に近接して大型土坑2基が造られており、調理用の炉と思われます。山中池南遺跡第1地点で発見された縄文時代の遺構は出土遺物から中期の前葉(約5000年前)に位置づけられます。広島県内では類例が少なく、貴重な資料です。
調査区北部で発見された大型の鍛冶炉です。平面形は楕円形に細長い取手が付いた形です。楕円形の部分が前者が炉の本体にあたり、取手状の張り出し部分に鞴の羽口が取り付けられていたと考えられます。全長約1.5mの規模です。 鍛冶炉本体内の縁辺部に炉壁片が連なるような形で出土したことから、炉の周囲を壁で加工していたものと思われます。
 
  
===炭窯炉跡(室町時代)===
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==中世(室町時代)==
 調査区南端部で発見された炭窯跡で、平面形は平面楕円形を呈し、長径1.15m、短径0.95m、高さ約40cmの規模です。断面形はややフラスコ状を呈する円筒形で、天井 はなく、開いた状態で使用されたものと考えられます。材料にある程度火がまわった段階で筵や土などを被せ、空気を遮断して炭を製造したものと想定されます。この炭窯で製造した木炭は、鍛冶炉などの燃料として利用されたものと考えられます。
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===鍛冶炉跡===
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調査区北部で発見された大型の鍛冶炉です。平面形は楕円形に細長い取手が付いた形です。楕円形の部分が前者が炉の本体にあたり、取手状の張り出し部分に鞴の羽口が取り付けられていたと考えられます。全長約1.5mの規模です。鍛冶炉本体内の縁辺部に炉壁片が連なるような形で出土したことから、炉の周囲を壁で加工していたものと思われます。
  
===2号溝(室町時代)===
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===炭窯炉跡===
調査区中央部東端で発見された溝で、長さ6.5m、幅0.9mの規模です。深さは約25cmで、両端が閉じているため排水用の溝とは考えられません。溝周辺は平坦面が形成されており、斜面下方に向かって広く木炭層や鉄滓が分布していました。東側は道路によって削平されているため遺構の性格ははっきりしませんが、東側の旧地形は丘陵平坦部であり、何らかの建物が存在した可能性が強いといえます。溝は建物を区画するとともに水溜めの機能があったのかもしれません。このほかに,多数の土坑が発見されました。木炭粒や焼土が多量に詰まっており、鍛冶炉が近接することから鍛冶作業に関連する遺構と思われます。
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 調査区南端部で発見された炭窯跡で、平面形は平面楕円形を呈し、長径1.15m、短径0.95m、高さ約40cmの規模です。断面形はややフラスコ状を呈する円筒形で、天井はなく、開いた状態で使用されたものと考えられます。材料にある程度火がまわった段階で筵や土などを被せ、空気を遮断して炭を製造したものと想定されます。この炭窯で製造した木炭は、鍛冶炉などの燃料として利用されたものと考えられます。
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===2号溝===
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調査区中央部東端で発見された溝で、長さ6.5m、幅0.9mの規模です。深さは約25cmで、両端が閉じているため排水用の溝とは考えられません。溝周辺は平坦面が形成されており、斜面下方に向かって広く木炭層や鉄滓が分布していました。東側は道路によって削平されているため遺構の性格ははっきりしませんが、東側の旧地形は丘陵平坦部であり、何らかの建物が存在した可能性が強いといえます。溝は建物を区画するとともに水溜めの機能があったのかもしれません。
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このほかに、多数の土坑が発見されました。木炭粒や焼土が多量に詰まっており、鍛冶炉が近接することから鍛冶作業に関連する遺構と思われます。
  
  
 
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2021年2月19日 (金) 14:53時点における最新版

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山中池南遺跡第1地点(アカデミック地区)

山中池南遺跡第1地点[1]は標高230m前後の丘陵裾緩斜面から段丘面にかけて立地しています。現状は周囲を削平されて、島状に旧地形が残されていましたが、元々は東側に丘陵、西に湖成段丘面が広がっており、遺跡付近は丘陵先端部から段丘面へ移行する緩斜面にあたっています。また、調査区の北側には埋没谷が広がっており、第1地点の北西に位置する第2地点との境界となっています。遺構・遺物は調査区の全域に分布しており、調査の結果、縄文時代、中世(室町時代)を中心とする時期の複合遺跡であることがわかりました。

調査区北端部と南部を中心として縄文時代の、調査区中央部を中心に中世の遺構・遺物が見つかりました。縄文時代の遺構は中世の遺構構築時に削平されている可能性があり、本来は調査区全域に広がっていたのかもしれません。

発見された遺構をまとめると次のようになります。

縄文時代
住居跡2軒、炉跡3基、土坑6基
中世(室町時代)
鍛冶炉1基、炭窯1基、溝2条、土坑13基

縄文時代

縄文時代の遺構は調査区南部で平地式住居跡2軒、炉跡1基、土坑4基、調査区北部で炉跡2基、土坑2基が発見されました。調査区南部の炉跡は2号住居跡に伴うもので、1~4号土坑の大半も住居に伴うものと思われます。調査区北部の炉跡は屋外炉で、土坑も同時に存在したものと思われます。 遺物は調査区全域から出土しましたが、とくに2軒の住居跡周辺から集中して分布しています。出土遺物は縄文土器、石器があります。

中世(室町時代)

中世の遺構は調査区中央部で、鍛冶炉跡1基、溝2条、土坑13基、調査区南端部で炭窯跡が発見されました。鍛冶炉はほかの遺構からやや離れて独立して構築されており、屋根などの上屋構造は確認できませんでしたが、簡単な遮蔽物があった可能性があります。土坑は調査区中部の西半に集中して群をなしています。地形的には浅い谷頭状の窪地に位置しています。溝は調査区中央部の東端に造られていますが、東側の削平部分に存在した遺構の一部と思われます。これら中世の遺構は製鉄に関連した工房の一部と思われます。



縄文時代

2号住居跡(SB02)

調査区南部で縄文時代の住居跡が2軒発見されました。いずれも平地式の住居です。1号住居跡は試掘調査の際に南側半分を削平してしまいましたが、2号住居跡(写真左)は完全な形で発掘できました。10本の柱穴が楕円形に巡っており、 長径5.2m、短径4.1mの規模です。住居跡周囲からは 多数の土器・石器が出土しました。

1号住居跡1号炉跡(SH01)

1号住居跡の中央には平面楕円形の素掘りの炉が築かれていました。 長径65cm、短径45cmの規模で、炉内から炭化したドングリの実(写真矢印、 クヌギ?)が1点出土しました。食用に採集したものが偶然落ち込んだのでしょう。

この他に、山中池南遺跡第1地点では屋外炉が調査区北側で2基発見されています。炉に近接して大型土坑2基が造られており、調理用の炉と思われます。山中池南遺跡第1地点で発見された縄文時代の遺構は出土遺物から中期の前葉(約5000年前)に位置づけられます。広島県内では類例が少なく、貴重な資料です。

中世(室町時代)

鍛冶炉跡

調査区北部で発見された大型の鍛冶炉です。平面形は楕円形に細長い取手が付いた形です。楕円形の部分が前者が炉の本体にあたり、取手状の張り出し部分に鞴の羽口が取り付けられていたと考えられます。全長約1.5mの規模です。鍛冶炉本体内の縁辺部に炉壁片が連なるような形で出土したことから、炉の周囲を壁で加工していたものと思われます。

炭窯炉跡

 調査区南端部で発見された炭窯跡で、平面形は平面楕円形を呈し、長径1.15m、短径0.95m、高さ約40cmの規模です。断面形はややフラスコ状を呈する円筒形で、天井はなく、開いた状態で使用されたものと考えられます。材料にある程度火がまわった段階で筵や土などを被せ、空気を遮断して炭を製造したものと想定されます。この炭窯で製造した木炭は、鍛冶炉などの燃料として利用されたものと考えられます。

2号溝

調査区中央部東端で発見された溝で、長さ6.5m、幅0.9mの規模です。深さは約25cmで、両端が閉じているため排水用の溝とは考えられません。溝周辺は平坦面が形成されており、斜面下方に向かって広く木炭層や鉄滓が分布していました。東側は道路によって削平されているため遺構の性格ははっきりしませんが、東側の旧地形は丘陵平坦部であり、何らかの建物が存在した可能性が強いといえます。溝は建物を区画するとともに水溜めの機能があったのかもしれません。

このほかに、多数の土坑が発見されました。木炭粒や焼土が多量に詰まっており、鍛冶炉が近接することから鍛冶作業に関連する遺構と思われます。


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